
日本語を教える ~キャリアパス~
国際交流基金では、日本語教授経験の全くない方、少ない方でも応募できる短期・長期の派遣プログラムや、世界各地の日本語教育機関にて業務を行う日本語専門家の海外派遣を行っています。また、国内施設にて海外から招へいした日本語教師に対する研修事業や、日本語能力試験も行っております。
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国際協力機構(JICA)でも、日本語教師を対象とした海外派遣を実施しています。
JICA海外協力隊派遣を経て活躍する日本語専門家の体験談を紹介します。
現場からのメッセージ
体験談の執筆が新しい順に並んでいます
意識が変わった日本語専門家との出会い
高校のとき、短期英語留学をした先で日本人日本語教師に出会いました。そのとき、「私も日本語教師になりたい!」と目標を決めました。そして、京都の大学で日本語教育を学びました。 大学卒業後、海外で日本語教育に携わっています。特に、私の日本語教師としてのキャリアのほとんどは国際交流基金のプログラムとの関わりが多いです。 卒業直後は、日本語パートナーズに類似しているJENESYS若手日本語教師。その後、フィリピンとインドネシアで1度ずつEPA日本語講師として。現在はインドで日本語専門家として日本語教育に携わっています。 EPA日本語講師のプログラムまで「海外で日本語を教えたい」「海外の日本語教育を知りたい」ということが主な応募動機でした。そして、EPA日本語講師任期終了後、JENESYS若手日本語教師として派遣されていた学校に現地採用として戻りました。このとき、日本語専門家の方と一緒に仕事をする機会があり、意識が変わりました。意識を変えるきっかけをくれた専門家の方は、偶然にも学部の先輩でした。先輩から多くの事を学び、活躍しておられる姿をみて、「日本語を教えたい」だけではなく、「その国の日本語教育を支えたい」「今までお世話になった分の恩返しをしたい」という意識に変わりました。そして、新たな目標を日本語専門家にしました。 その後、日本語専門家になるためにも大学院に進学し、語彙のe-learningの研究をしながら、大阪の大学でプログラムコーディネーターや非常勤日本語教師として働きました。これらの経験も今の活動で活きています。 現在、日本語専門家としてニューデリーでの主な業務は、初中等教育支援、北・東部民間機関支援、オンラインコースの実施です。まだ日本語専門家としては新米で学ぶこともたくさんありますが、今までの経験を活かし、少しでもインドの日本語教育に貢献したいと考えています。 国際交流基金のプログラムはいろいろなプログラムがあります。そのため、みなさんが日本語教育のどの部分を支えたいかによって、応募するプログラムは変わると思います。いろんなプログラムに参加していろんな視点から日本語教育を見て、経験してみてください。みなさんと一緒に世界の日本語教育を支えていけたら嬉しいです。
一日のスケジュール(日本語専門家)
My キャリア
- 2009年~2010年
- 国際交流基金 JENESYS若手日本語教師(タイ)
- 2010年~2011年
- インドネシアで日本語ボランティアなど
- 2011年~2011年夏
- 国際交流基金 EPA日本語講師(フィリピン)
- 2011年秋~2012年春
- 国際交流基金 EPA日本語講師(インドネシア)
- 2012年~2015年
- 公立中学・高等学校常勤講師/日本語学校非常勤講師(タイ)
- 2016年~2017年
- 関西大学国際部 非常勤嘱託職員(プログラムコーディネーター)
- 2017年
- 京都外国語大学大学院外国語学研究科入学
- 2018年
- 関西大学(短期語学研修コース) 非常勤講師
- 2019年
- 京都外国語大学大学院 修士号取得
- 2019年~
- 国際交流基金 日本語専門家(インド)

きっかけは偶然。経験の積み重ねが次へのステップに
日本語教師という仕事に興味を持ったのは、就職活動の時期。大学では日本語教育とは畑違いの分野を勉強していましたが、漠然と将来は海外に行きたいという希望を持っていました。就職活動中に、青年海外協力隊の募集広告に目が留まり、海外で人の役に立つ仕事がしたいと思い、いろいろな職種の中で、なんとなく自分にもできそうだし、おもしろそうだと考えたのが日本語教師でした。今思うとかなり安易な考えでしたが、こうして日本語教師への道に踏み出しました。
大学卒業後、日本語教師養成講座に通い、1回目の協力隊の試験には不合格でしたが、タイの大学で働き始めました。タイの日本語専攻の学生に教えていた頃は、自分の力不足に悩むこともしばしばでしたが、2年後、2回目の挑戦で念願だった協力隊に合格し、エルサルバドルに派遣されました。このときも大学派遣でしたが、一般向けの公開講座も担当し、地理的に遠く仕事や留学につながりにくいにも関わらず、日本に興味を持っている人が多くいることを知りました。日本語授業だけではなく、日本祭やスピーチコンテスト等のイベント開催にも関わり、充実した隊員生活を送りました。その後、協力隊時代に培ったスペイン語を極めたいと思い、マドリードに留学、大学院に行くことにしました。修士課程を終え、また海外の日本語教育に携わりたいという思いから、国際交流基金が募集していたEPA日本語講師に応募し、フィリピンに派遣されました。短期間のプログラムでしたが、来日し国家試験合格を目指す看護師・介護福祉士候補者を対象とした日本語教育はとても意義深く、また定期的に開かれる勉強会や、講師同士の授業見学などを通して、自分の教え方を振り返り、成長する機会を得ることができました。帰国後、更に国際交流基金事業で経験を積みたいと考え、日本語専門家に応募し、マドリード日本文化センターに派遣されました。ここでは、主に一般対象の日本語講座、そして「JFにほんごeラーニング みなと」運用の日本語コースを担当し、オンラインのコース制作といった新たな経験もできました。そして今は、関西国際センターで日本語教育専門員としてeラーニングを担当しています。業務は海外拠点の「みなと」運用コースのサポートや、ライブレッスン、コース制作など多岐にわたります。 日本語教育を通して世界の人と出会い、つながり、さまざまな経験をする中で、どんどんやりたいことや勉強したいことが増えてきました。現在も学び合える環境で日々刺激を受けながら仕事しています。
一日のスケジュール(日本語専門家)
My キャリア
- 2005年~2007年
- キングモンクット工科大学 常勤講師(タイ)
- 2008年~2010年
- 国際協力機構(JICA)青年海外協力隊 (エルサルバドル)
- 2010年~2012年
- マドリードコンプルテンセ大学 スペイン語コース修了
マドリード自治大学 修士課程修了(スペイン) - 2012年~2013年
- 国際交流基金 EPA日本語講師(フィリピン)
- 2014年
- ECC外語学院 スペイン語非常勤講師
- 2014年~2019年
- 国際交流基金 日本語専門家、JF講座調整員(スペイン)
- 2019年~
- 国際交流基金関西国際センター 日本語教育専門員

初めての海外生活
はじめまして。根岸明穂と申します。2019年の夏からアメリカ合衆国アラスカ州の高校で現地のリードティーチャー(LT)と共に日本語を教えています。私は英会話力を身につけ日本国外での仕事や生活を経験し、アメリカの教育や日本語教育について学びたいと思いJ-LEAPに参加しました。また、日本とアメリカそれぞれの文化や価値観を共有し、コミュニティー同士の相互理解を推し進める人々を育てるサポートをしたいと考えたのも大きな理由の一つです。 私は2018年に大学を卒業し、1年間日本語学校で勤務した後にJ-LEAPに参加しました。大学では日本語教育ではなく英語言語学や第二言語習得論、認知言語学などについて学び、卒業後に日本語学校の事務員として働きつつ日本語教師としての資格を取得しました。 アラスカ州での主な活動内容は、派遣校での授業、教材作り、文化紹介、生徒の会話や発音とイントネーションのサポートなどです。また、姉妹都市交流のイベントや外国語大会など、コミュニティー規模での日本語や日本文化の普及にも携わっています。そして、LTが日本語に加え教えているEducators Risingという教育に関する授業にも日本からの教師という立場で参加しています。 日本での日本語教師としての経験よりもアメリカでの教授経験の方が長くなった今、生徒たちを惹きつけ、言語を通して彼らの世界が広がっていくことを感じる楽しさは何にも変えられない喜びだと感じています。また、LTと実際に毎日授業をすることで、媒体を通してでは得られないスキルや経験が身についていることを強く感じています。 国際交流基金は派遣者に対して生活面・精神面を含め手厚いサポートを提供しています。私のように海外生活が初めてであっても、安心して活動に集中することができます。また、派遣前・派遣中の研修も豊富で、充実したトレーニングを受けることができます。そして、同期やJ-LEAPの先生方とのつながりは派遣中・派遣後も続く、かけがえのないものです。みなさんとのつながりもまた、広がっていくことを楽しみにしています。
一日のスケジュール(J-LEAP)
My キャリア
- 2018年
- 日本語学校勤務
- 2019年
- 国際交流基金 米国若手日本語教員(J-LEAP)

周囲の理解を得ながら仕事と子育てを両立
私と国際交流基金のご縁は、関西国際センター(KC)でインターンシップをした大学生の時にまで遡ります。「各国成績優秀者研修」に参加した世界中の若者が、日本語を共通言語として友情を深めていることに感動し、尊敬の気持ちを持ったことが日本語教師としての私の原点です。国際協力機構(JICA)の派遣を経てKCの専門員になれた時には、夢が叶ったと涙したものです。
KCでは、研究者・院生、外交官・公務員、大学生、高校生、海外日本語教師など、対象も日本語レベルも期間も異なる研修をいくつも担当し、リーダーとして研修全体をコーディネートする力を養いました。KCではPDCA(Plan-Do-Check-Act)のようなサイクルが自然と回っていて、研修は常に改善が加えられています。ノウハウもしっかり共有されていたので、若手の専門員が多くを学び、生き生きと楽しみながら活躍できる環境でした。
その後、日本語上級専門家としてタイに派遣されました。派遣先はタイで初めて日本語教育主専攻を開設した大学でした。立ち上げ期だったため、カリキュラム改定という高度の専門知識が求められる業務もあれば、教員が集まって仕事をする部屋づくりのような地道な業務もありました。教育実習先の高校を訪問するために日本横断よりも長い距離を1か月で移動したり、タイ全土の日本語教師対象のセミナーの講師をしたりと、専門家には体力と知力のどちらも必要でした。苦労もありましたが、支えてくれたのは日本語の先生を目指して頑張る学生たちと、現地の先生たちでした。
帰国後はKCに復帰、出産を経てママさん専門員になりました。KCには仕事と育児を両立させている男性・女性も多く、周囲の理解が得られて本当にありがたかったです。
KC専門員と大学や日本語学校の先生との大きな違いは、学習者との関係かもしれません。専門員は、研修を通じて彼らが日本で得難い経験をし、帰国後も日本語を学び続ける気持ちを持つことを応援します。「教師」と「学生」とは少し違うこの関係から生まれた絆は強く、今でもSNSで繋がっている人が世界中にいます。出会った人の国・地域の数を数えてみたら、軽く100を越えました!彼らとの出会いは、私の宝物です。
そして今、派遣当時の教え子の多くがタイの中学・高校の日本語教員となり、日本語パートナーズのカウンターパートとなるなど活躍しています。教師として成長した彼らの姿を見ると、言葉にならないくらい感動します。現在、私は「タイの中等日本語教員のキャリア形成」についての研究をしています。その誕生と成長を記述する中で、国際交流基金が海外日本語教育に果たした役割もまた、伝えたいと思っています。
一日のスケジュール(関西国際センター)
My キャリア
- 2000年~2002年
- 修士課程休学、国際協力機構(JICA)青年海外協力隊(中国)
- 2002年~2005年
- 修士課程修了、立命館大学他非常勤講師
- 2005年~2008年
- 国際交流基金関西国際センター 日本語教育専門員
- 2008年~2010年
- 国際交流基金 日本語上級専門家(タイ)
- 2010年~2015年
- 国際交流基金関西国際センター 日本語教育専門員
- 2015年~2018年
- 国際交流基金日本語試験センター 研究員
- 2018年~
- 国際基督教大学 専任教員

新しい役割を担う日本語教師の育成支援
日本語教師のキャリアパスは様々ですが、私の場合は、将来ことばの教育で国際社会に貢献したいと思い、大学入学と同時に日本語教師を志しました。どうせなら一流を目指そうと、在学中に一年間のインターンシップに出て、教える面白さと難しさを実感しました。それと同時に、もっと力をつける必要があると感じたため、アメリカの大学院を目指すことにしました。ところが、なかなか勉強が思うように進まずその道を断念し、いつかは参加したいと考えていた国際協力機構(JICA)青年海外協力隊としてドミニカ共和国に赴任することになりました。協力隊の任地では、現地の人と力を合わせて教師会や日本語スピーチコンテストを立ち上げる機会に恵まれ、周囲と協力しながら仕事をすることを学びました。そして、帰国後すぐに国内の大学院へ進学し、広く深く国際言語教育について学んだことで、経験と知識が結びつき、世界の日本語教育の最前線に出ていく自信も得ることができました。
国際交流基金での仕事は指導助手としてラオス国立大学に赴任したのが最初でした。下積みの二年間だと思い、経験したことのない業務や苦手意識のあることを優先し、幅広く活動することを心がけました。その後、フィリピンではEPA(経済連携協定)訪日前研修の副主任を任され、たくさんの日本語の先生をサポートする仕事をしました。そこは多くの人と関わる職場だったので周囲から学ぶことが多く、自分を内省したりチームで苦境を打開したりして成長させていただきました。現在は、ミャンマーで急成長する日本語学習者のために日本語教師育成プログラムをつくっています。
日本語教師の役割も時代とともに変化していると感じます。すなわち、知識を効率よく与える役割から、学習者自身の学びを応援する役割へ。私は今、その新しい役割を担う教師を支援するために、何をどのように伝えればよいか毎日知恵をしぼっているところです。
日本語教育の道は一本道というわけではありません。たくさんの同志と共に駆け回る、岩場ありオアシスありの大草原のようなものではないでしょうか。
一日のスケジュール(日本語専門家)
My キャリア
- 2005年~2006年
- マカオ大学日本語教師インターンシップ
- 2008年~2010年
- 国際協力機構(JICA)青年海外協力隊 日本語教師(ドミニカ共和国)
- 2011年~2013年
- 創価大学大学院 修士課程
- 2013年~2015年
- 国際交流基金 日本語指導助手(ラオス)
- 2015年~2018年
- 国際交流基金 日本語専門家(フィリピン)
- 2018年~
- 国際交流基金 日本語専門家(ミャンマー)

外国語を学ぶこと、教えること
大学を卒業して、すぐに海外で生活をはじめました。時は「いけいけドンドン」のバブル時代。それまでコンプレックスだったアジア性、日本性がオセロゲームのコマがひっくり返るように、ネガからポジに変わっていく高揚感が日本を支配していたように記憶しています。ただ、私にとって「日本はすごい」という自己肯定的なメッセージは、他者の存在を覆い隠し、世界がどんどん狭くなるようで、息苦しく窮屈に感じました。とにかく、「違うもの」に触れたくて日本を出ました。
外国ですぐに触れる「違うもの」は、言語と文化システムです。外国で生活しながら、異なる言語文化システムを身につける過程は、日本語・日本文化で養成された自己を否定/更新/創造するもので、苦しくも快いものでした。仮面ライダーを見て育った世代としては、まさに「変身」体験。自分の言語・文化システムの再編成は、自分自身を作り、結果、私の生きる世界を作ることになりました。
海外の日本語教育の仕事は、変身人生にうってつけの職場でした。なにしろ、共に学ぶ学生も、大いに変身していきます。日本語を学んで日本に留学するもの。日本には行かなかったけど、大学を卒業して、就職、結婚し、親になるもの。日本に触れて自分の文化を見直すもの。日本語教育を通じて、新しい考え、生活、価値観、自分を獲得する人々と接するのは、刺激に満ちた毎日でした。彼/彼女らと生活を共にする中で、私の言語教育観も変わっていきました。一言で言えば、海外の日本語(言語)教育は、学習者が持っている言語・文化に日本性をぶつけて、変身を促すこと。文化的にも価値的にも新しい人と社会を作ることだと思います。そう考えると、今、日本語教育が担っている仕事は、ごくわずかです。できることは、もっと多いと思います。
私は、国際協力機構(JICA)と国際交流基金の派遣で、約20年、6つの国で日本語教育に携わりました。JICAボランティア、国際交流基金の日本語専門家、上級専門家と、立場の違う仕事を通じて、日本語教育の可能性の広さも実感しました。50歳になって、日本に戻ることにしましたが、多くの人からゆずりうけた「違うもの」を、変わりゆく日本社会に還元していこうと思います。
一日のスケジュール(日本語上級専門家)
My キャリア
- 1994年~1997年
- コルドバ日本語学校(国際協力事業団海外開発青年)
- 1997年~2000年
- 国際交流基金 日本語専門家(ウズベキスタン)
- 2000年~2001年
- 国際交流基金 日本語専門家(ロシア)
- 2003年~2006年
- 国際交流基金 日本語上級専門家(ウズベキスタン)
- 2007年~2010年
- 国際交流基金 日本語上級専門家(ハンガリー)
- 2011年~2015年
- 国際交流基金 日本語上級専門家(英国)
- 2015年~2018年
- 国際交流基金 日本語上級専門家(ブラジル)
- 2018年~
- 早稲田大学大学院日本語教育研究科 教授

さまざまなプログラムを通じてキャリアを形成
私は大学卒業後民間企業で働いたのち、日本語教師養成講座を受講し日本語教師として働くようになりました。特に海外での日本語教育に興味があり、韓国の語学学院で専任講師として働いたり、国際協力機構(JICA)青年海外協力隊の日本語教師としてタイ南部の高校で日本語を教えたりしていました。そして青年海外協力隊での派遣が終わる直前に、国際交流基金の日本語パートナーズ事業が始まることを知り、タイの他の地域の日本語教育も見てみたいという思いから日本語パートナーズ(以下、NP)に応募しました。
NPでは派遣事業の皮切りとなるタイ1期として、タイ中北部にある中等教育機関に派遣されました。派遣校ではカウンターパートの先生と一緒に日本語の授業に入り、生徒たちの会話練習の相手や日本文化紹介等をしました。生徒たちは元気いっぱいで、日本語や日本文化をとても楽しんで学んでくれていました。一方でカウンターパートの先生と接する中で、現地の先生たちが教師としてのさまざまな業務をこなしながら、同時に日本語力や教授力を維持・向上させていくのは非常に難しいことだと感じました。そして、日本語教育の質的な向上、継続のためには、現地の先生たちが情報交換をしたり学び合ったりできるようなネットワークの構築、また自律的に日本語や教授技術を学べるような環境を整備することも必要だと感じるようになりました。私にとってNPでの経験は、より広い視点で教師支援に携わりたいという、次のステップへの後押しとなりました。
NP派遣後は日本に戻り、大学院で日本語教育に関する修士号を取得しました。2019年4月からは、日本語専門家としてタイ北部地域の中等教育支援に携わります。任地では配属先校への支援の他、北部地域の中等教育機関への訪問及びコンサルティング、教師研修などの開催、ネットワーク構築促進などを行う予定です。これまでの日本語教師経験やNPでの経験も活かしながら、タイ北部地域の日本語教育に貢献したいと考えています。
国際交流基金にはいろいろなプログラムがあり、日本語教師としてのキャリアを形成していくことが可能だと思います。いつか世界のどこかで皆さまにお会いできることを楽しみにしています。
一日のスケジュール(日本語パートナーズ)
My キャリア
- ~2007年
- 民間企業
- 2008年~2010年
- 韓国・語学学院 専任講師
- 2012年~2014年
- 国際協力機構(JICA)青年海外協力隊(タイ)
- 2014年~2015年
- 国際交流基金 日本語パートナーズ(タイ)
- 2016年~2018年
- 早稲田大学大学院日本語教育研究科 修士号取得
- 2019年~
- 国際交流基金 日本語専門家(タイ )

海外の現場が原点であり、原動力
日本語教師になりたいと考え始めたのは高校生のとき。その夢を胸に修士課程で学んでいた頃、国際交流基金の日本語指導助手プログラムがあることを知りました。日本語教育経験がほとんどなくてもよく、しかも、派遣先の国では日本語教育の専門家の指導が受けられるというのが魅力的で応募することにしました。指導助手として10か月(※)、カザフスタンにある日本人材開発センターで大学生や社会人の方に日本語を教える他に、センターで使用するクラス活動集の作成、日本語クラブの発足・運営、日本文化イベントや日本語教育国際大会の企画・運営補助などを行いました。日本語教師の仕事が教室の中で教えること以外にこんなにも多岐にわたることに驚くと共に、日本人がほとんどおらず、日本の情報も乏しい地で、それでも目を輝かせ日本語を学ぶ人たちとの日々は、新鮮で充実したものでした。
10か月では、日本語教育の扉を少し開いただけで何も分かっていない、もっと知りたいという気持ちが大きく、帰国後すぐに日本語専門家に応募し、次の年にはフィリピンの国際交流基金マニラ日本文化センター(以下、JFM)に赴任し、3年間勤めました。現地の日本語教師支援が主な業務で、JFMの日本語上級専門家やフィリピン人講師と協力し、教師のための日本語や教授法講座、日本語教育フォーラムの企画・運営などを行いました。また、3年目には、中等教育で日本語科目が新設されるのを受け、中等教育用の教材開発や、社会科や英語の高校教師が日本語も教えられるようになるための研修も行いました。学習者に日本語を教えるのではなく、現地の日本語教師養成や教材開発など、日本語教育環境の整備というこれまでとは違った形で日本語教育に携わる貴重な機会となりました。
帰国後、国内で非常勤講師として勤めていましたが、海外の日本語教育に関わりたいという想いが大きくなり、国内にいながらそれが叶う、大阪にある国際交流基金関西国際センターの日本語教育専門員になりました。ここでは、外交官や研究者のための訪日研修や、海外の学習者のためのeラーニング開発を行っています。私自身は、主にeラーニングを担当しています。ICTの発展に伴い、日本語の学び方、教え方は多様化してきています。数年前からは、世界の学習者をオンラインでつないだライブレッスン授業も担当しています。
高校生のときには想像もしていなかった今の自分自身の姿。海外の現場が私の原点であり原動力になっています。
(※)2005年当時の任期。現行の指導助手の任期は通常2年間。
一日のスケジュール(関西国際センター)
My キャリア
- 2005年~2006年
- 国際交流基金 日本語指導助手(カザフスタン)
- 2007年~2010年
- 国際交流基金 日本語専門家(フィリピン)
- 2010年~2013年
- 大阪大学他 非常勤講師
- 2013年~
- 国際交流基金関西国際センター 日本語教育専門員

日本語をとおして得られる、かけがえのない経験
初めまして。私の名前は山口慧です。現在、米国のウェストバージニア州の高校で日本語を教えるアシスタントをしております。 二年前、私が国際交流基金のプログラムである日本語パートナーズに参加したきっかけは、未経験者でも海外で活動できること、また任地の文化や言語を私自身も学ぶことができることに、魅力を感じたからです。マレーシア任期中、同僚の先生や友人からマレーシアの文化について学ぶことができ、本当に良い経験でした。 米国若手 日本語 教員(J-LEAP)に参加した理由は、日本語教育が米国でどのように行われているか勉強したく、又、英語力を向上させる為です。ウェストバージニア州での主な活動内容は、授業における発音や会話のサポート、教材作り、文化についてのプレゼンテーションなどです。また、今年の一月より日本語クラブを発足させ、週に一度活動しています。 経験は浅いですが、日本語教師という仕事は教える場所・相手によって変わるものだと感じています。同じ文化紹介をしても学生によって反応は様々で、思いがけない質問を受け、勉強になります。そして、学生の上達を見ることができるのは、本当に嬉しいものです。学生の「分かった!」という顔を見るのは、とても励みになります。きっと、かけがえのない経験が得られると思いますので、一度参加をしてみてください。
一日のスケジュール(J-LEAP)
My キャリア
- ~2014年
- 民間企業
- 2015年(10ヶ月間)
- 国際交流基金 日本語パートナーズ
- 2016年~
- 国際交流基金 米国若手日本語教員(J-LEAP)

日本語教授歴ゼロからタイへ、
そして、次のステージへ
私は、2015年5月から約10カ月間、タイで日本語パートナーズとして活動を行っていました。主な活動内容は、タイ人教師のサポートや、生徒との異文化交流でした。外国の教育現場に入り、カウンターパートの先生と一緒に日本語を教えることができたのは、日本語教授歴がゼロであった自分にとっては貴重な経験となりました。
活動の中で特に刺激を受けたのが、タイの学校事情でした。目処の立たないスケジュールや、突然キャンセルされる授業などへのストレスを感じる毎日。そんな私をよそにのんびりしているタイ人教師陣。どうしたらこの焦燥感から脱却できるのか考えていた時に浮かんできた言葉が、‟ไม่เป็นไร"「マイペンライ」(大丈夫/なんとかなる)でした。異文化の地に入り、そこで活躍できる日本語教師になるためには、自分の常識や文化的背景をものさしにしてはいけない、という最も基本的なことを学びました。 今後は、国際交流基金の「日本語指導助手」として、2018年からオーストラリアで活動することが決まりました。タイでの経験を踏まえ、海外での日本語教育についてより一層学び、次へのステップアップに繋げられるよう、活動していきたいと思います。 国際交流基金では、生活面や精神面などに対してしっかりとしたサポートを提供してくれるので、無用な心配や不安なく活動できます。いつか基金のプログラムを通して一緒に活動できる仲間が増えたら嬉しいです。
一日のスケジュール(日本語パートナーズ)
My キャリア
- 2015年~2016年
- 日本語パートナーズ(タイ)
- 2018年1月(予定)
- 日本語指導助手(オーストラリア)

様々な形で学ぶ人たちと寄り添うことで得られること
今まで多くの日本語学習者を見てきました。日本の学校の教壇に立つ夢をもち、教員資格試験合格を目指して猛勉強していた中国人男性。「先生、この教科書、全部覚えたら、日本語、話せるようになりますか」と屈託のない笑顔で質問してきたエジプトの男子大学生。日本に住み、日本語能力試験1級も合格したのに、会社の同僚とうまく話せないと悩んでいたカンボジアの男性。 オレンジレンジの"花"を何度も何度も聞いて、聞き取った歌詞を薄っぺらな日本語の辞書で調べていたベトナム人女子学生。 日本語で論文を書くのは大変と泣きながら真っ赤に添削された原稿を読み直していたミャンマーの留学生。「私、英語がわからないから数学も歴史も物理もだめだけど、日本語はクラスで一番なの」と誇らしげに語ってくれた英国に移り住んだ女子中学生と、その傍らで慈しむような目で彼女を見つめていた英国人の日本語の先生。いろいろな人が、いろいろな環境の中で、いろいろな目的を持って、いろいろな方法で日本語を学んでいます。日本語教師は、その人たちの傍らでその人たちの学びに寄り添い、必要なときに必要な手助けをする、そんな仕事です。そのとき求められるのは、今、何をどのように手助けしたらいいのかをすばやく判断し適切な方法で提示できる柔軟性(“引き出しの多さ”)だと思います。異なる文化・習慣・考え方を持つ学習者と共に語り合い、教え合い、学び合う中で教師の人間力も広く深く、豊かになっていくと思います。
一日のスケジュール
My キャリア
- 1987年~1990年
- 大阪YWCA専門学校日本語科専任講師、
および大阪外国語大学留学生別科非常勤講師 - 1990年~1992年
- 国際交流基金 日本語専門家(エジプト)
- 1992年~1994年
- 大阪外国語大学留学生日本語教育センター非常勤講師、
および関西大学国際交流センター非常勤講師 - 1994年~1999年
- 国際交流基金 日本語国際センター専任講師
- 1999年~2002年
- 国際交流基金 日本語上級専門家(英国)
- 2002年~2007年
- 国際交流基金 日本語国際センター専任講師
- 2007年~2010年
- 国際交流基金 日本語上級専門家(インドネシア)
- 2010年~
- 国際交流基金 日本語国際センター専任講師

日本語教育の海で、まだ見ぬ世界を求めて
人生はよく「航海」に譬えられます。順風もあれば逆風もある。嵐の日も凪の日も。進路を見失ったら、灯台が導いてくれる。6年前、それまで決して平穏ではなかった私の人生の航路は一気に拓き始めました。きっかけは、日本語教育との出会いでした。 日本語教師になってまもなく、国際交流基金の米国若手日本語教員派遣により、中等教育機関で日本語を教え始めました。日々の授業からカリキュラムやコースデザインまで携わり、受入校の日本語教師と協働しながら、日本語プログラムの発展に取り組みました。さらに、活動は受入校内にとどまらず、日本語イマージョンキャンプ運営や日本文化の出張授業など、地域・州規模の日本語教育支援も精力的に行いました。2年の派遣期間を終えた私は、より専門的に日本語教育を学ぶため大学院に進学しました。ティーチングアシスタントとして日本語クラスを担当しながら、映画鑑賞会などの文化イベントも企画するなど日本語学習者コミュニティの活性化にも尽力できたと思います。そして、2017年7月から日本語専門家としてインドネシアの中等教育支援に携わります。日本語教育界でホットなインドネシア中等教育。貴重な機会を与えていただき、期待に胸が膨らむばかりです。任地では、教師研修や地域教師会の支援といった「教師のサポート」を中心に担当します。これまでの経験や知識を総動員し、地域の日本語教育に貢献したいと思います。 私の航海はまだ始まったばかり。世界は広い。しかし、思っている以上に世界は狭い!いつかどこかで皆さんとお会いするかもしれません。その時はぜひ、皆さんの「世界に一つの航海日誌」を聞かせてください。楽しみにしています!
一日のスケジュール(J-LEAP)
My キャリア
- 2013~2015年
- 国際交流基金 米国若手日本語教員(J-LEAP)
- 2017年
- 米国Purdue University修士号取得(応用言語学・日本語教授法)
- 2017年7月
- 国際交流基金 日本語専門家(インドネシア)