国際交流基金賞50周年記念 グナワン・モハマドさんからのメッセージ

(c) Aryatama
令和4(2022)年度 国際交流基金賞
詩人、作家、画家
グナワン・モハマド
[インドネシア]
ある種の聖域
もし私が未来についてのSF小説を書くとしたら、あまり喜べない、言葉のノイズの世界--アメカの世界--を創造するでしょう。
アメカとは、高性能のチャットボットGPTを搭載した英国製最先端ロボットの名前です。このヒューマノイドは優れた会話能力を持つことで知られており、アルゴリズムによって膨大な情報を吸収・消化すると、瞬時に言葉を発します。ハムレットの有名な台詞を借りるならば、より正確には「言葉、言葉、言葉。」なのです。
このような環境では、沈黙は部外者となります。沈黙は疎外され、明確な音、明瞭な声、時折聞こえる叫び声や悲鳴の中で、疑わしい存在になってしまいます。私の陰鬱な小説では、それが対話を単なるおしゃべりに変えてしまうでしょう。それらは必ずしも哲学者が軽蔑する「無駄話」ほど悪いものではありません。とはいえ、アメカが誘導する言語環境では、真につながることなく、ただコミュニケートするために言語を使用する傾向があるのです。
したがって、おそらく私たちは、代わりになるもの、あえて言えば、聖域が必要なのだと思います。
まだ書いていないその小説の外に、私は日本のことを考えています。少なくとも私の心の中にある日本のことを。
2009年の秋、東京から山ノ内の温泉街、渋温泉に向かう鈍行列車の座席に座っていたときのことを覚えています。終着駅までの道すがら、車窓に広がる紅葉の色彩が、つかの間の万華鏡のような画面を作り出していました。仏教徒の友人がかつて言ったように、時間とは至福の儚さなのです。私は座席で、能役者の影が、不格好な道路やビルの市街地図、喧噪の地理から一歩踏み出す姿を想像していました。
私が乗っていた車両はほとんど空席でした。 一つ隣の席に座った細身で魅力的な日本人女性と、湯田中駅から乗車してきた青白い顔の老紳士だけでした。 しかし、誰も言葉を発しません。
あるいは、私は誤解していたかもしれません。
日本のノーベル賞作家である川端康成は、 「いかなる言葉も沈黙ほど雄弁ではない」 と書きました。
川端は私の大好きな作家です。なぜか、私はいつもこの小説家のことを詩人、より正確に言えば、20世紀の俳人だと思っています。
彼は作品集『富士の初雪』に収められた短編の中で、語り手の三田と、脳梗塞で衰弱してからは沈黙することを選んだ66歳の小説家、大宮明房を登場させます。彼は 「もはや一字も書かないそうである。」と。
作家でもある三田は、明房と娘の富子を訪ねて鎌倉から車を走らせます。彼は年上の作家を 「言葉の飢餓」 から救いたいと願います。そして会話をなんとか始めようと、彼に自分から話しかけ続けます。
気まずい状況が続きます。明房が頑なに無言でいるうちに、三田は次第に自分の言葉をもてあそぶようになります。彼は自分がしゃべりすぎだとわかっています。そして、その話すことをしない作家がどんな言葉をかけても応じないことがわかると、ついに三田は、明房を通常の言葉の環境に誘い戻すことー彼の「無言の聖域」を侵すことーが正しいことなのかどうか考え始めます。「無言ほど多くを語る言葉はないことを、私だって経験しないことはないではないか。」
その後で彼は考えます。「無言は無意味どころじゃない…私も一生のうちには、せめてしばしの無言にはいりたいと思います。」
三田が寡黙な作家になったのか、それとも修道士たちが日夜言葉を発することなく過ごす北海道のトラピスト大修道院に滞在することにしたのか、この物語には書かれていません。物語の序盤で川端は、まったく別の言葉を発しない存在について簡単に触れています。それは、逗子に向かう途中のトンネルを出たところにある火葬場の近くによく現れる女の幽霊です。
私は彼が物語を短くとどめるところが好きです。
優れた散文は、言葉の力とその空虚さの間にある曖昧さ、あるいは緊張感を否定しない限り、優れたものであり続けます。私は決して俳句の専門家ではありませんが(日本語はまったく話せません)、芭蕉の作品の中で、その 17の 音節がそれ以外の部分の静寂に仕えるかのように書かれていることに気づきます。
ある日、この俳人は森に囲まれた険しい岩山の中にある立石寺まで千段以上の階段を登り、有名な俳句を詠んだと言われています。
閑けさや 岩にしみ入る 蝉の声
川端は「愛情が言葉の出発でしょう」と言いました。 しかし、言葉にされないものも同様であるということに、彼も同意すると思います。
イギリス人の友人が、広島に原爆が投下されて何千人もの老若男女が亡くなった数時間後、生き残った人たちが木立に集まったという話をしてくれました。しかし、そこで話し声はほぼ聞かれませんでした。焼けた肉体のにおいが唯一痛みと苦しみを物語っていました。ある作家が言ったことですが、おそらく肉体的な痛みは単に言葉に抗うのではなく、積極的に破壊するからなのでしょう。静けさの中から恐怖が現れるのです...
もし私が未来小説を書くとしたら、オリジナリティを主張することなく、アメカの世界における無言語の破壊的な力を描写すると思います。頭脳的なチャットボットGPTに生活が支配される中、静かな痛み、無言の喜び、言葉にならない欲望ー身体に深く浸透した人間の状況ーが、世界を生き生きとさせ意味のあるものにするでしょう。
そして私は、能登半島の静かな山麓で画家として働いている自分を想像しています。それが私にとっての聖域です。
グナワン・モハマド
(原文 英語)