世界の日本語教育の現場から(国際交流基金日本語専門家レポート)夢を翼に乗せて・・・日本留学を目指すマレーシアの若者たち

マラヤ大学予備教育部
伊達久美子・対尾幸華・篠原典子

早朝5時過ぎに荘厳なコーランを唱える声で夜が明けるマレーシアは、マレー系・インド系・中華系という多民族が、お互いの民族性を尊重しながら暮らしている魅力的な国です。その首都クアラルンプールにあるマラヤ大学(UM)の予備教育部(PASUM)に付設されたコースが、日本留学特別プログラム(RPKJ/通称AAJ)です。

AAJの施設外観の全貌の画像
AAJの全貌

1982年に設立したAAJは、今年で35年目を迎えます。1984年に初めて日本に留学した学生数はわずか39名でしたが、現在までの34年間で約4000人を超える学生が日本の大学へ巣立っていきました。実はマレーシアには4つの予備教育機関があり、それぞれの機関が特徴を持っています。AAJの特徴は、ブミプトラ政策の下、マレー人と日本人の教員による日本語及び教科(数学・物理・化学)の学習項目を修了後、所定の試験に合格すれば日本の国立大学の工学部1年次に入学できることです。2016年度は、マレーシア経済の不況の煽りを受け1年生(35期生)の入学生数は70名を下回り62名となりましたが、2年生(34期生)101名と合わせて、163名の学生が日本留学を目指して日々勉学に励んでいます。日本語科教員は、国際交流基金派遣の日本語専門家が12名(上級専門家3名・専門家7名・指導助手2名)、マレーシア人現地教員が12名です。

AAJが目指すゴールは、言うまでもなく学生全員が11月に実施されるEJU(日本留学試験)本試験とその後12月に行われるAAJの修了試験に合格し、日本の国公立大学の理工学部に入学することにあります。試験合格を目指して、1年次よりAAJ独自のカリキュラムに沿った授業が、まさに時間との戦いの中で実施されていきます。

1年生の場合、入学後開始される2週間の日本語集中授業で1週目にひらがなとカタカナを、2週目からは日本語の初級文型と漢字が順次導入され、4技能育成のための様々な授業が朝9時から夕方5時まで行われます。平常授業が始まれば、日本語だけでなく教科〈数学・物理・化学〉の授業も始まるため、学生は土曜日と日曜日以外、朝8時から夕方の6時まで勉強漬けの毎日です。寮に帰ればそれぞれの科目で出される宿題とクイズの準備もあり、寮でも3~4時間は勉強するそうです。さぞかし大変なことでしょう。それでも後れを取らないよう必死に勉学に励む学生を見るにつけ、教員の私達も身が引き締まる思いです。

一方2年生は、1年生と同様1日9時間近い授業を受け、更に6月に行われる第1回EJU試験の準備で、1年生以上に大変な日々を送っています。年明け早々には日本の大学に留学できるかどうか決まるだけに、精神的なプレッシャーとの闘いが強いられているに違いありません。それでも、5月の第一週にある「先生の日」には、女子学生は日本語科教員に、男子学生は教科教員にケーキと大きなカードを持ってきてくれました。どんな時でも先生を敬うマレーシア文化の素晴らしさに触れ、感動した一時でした。

「先生の日」のお祝いに教員室に来た2年生の女子学生の画像
「先生の日」のお祝いに教員室に来た2年生の女子学生

1年・2年共に勉強一色のAAJですが、そんな学生達が少しでも気分転換できるよう、このコースにはスポーツ大会や日本語スピーチコンテスト、日本の高校生との交流会や先輩の話を聞く会、昨年度初めて開催された日本クイズ大会、1年生対象の漢字大王コンテスト、2年生対象の日本人家庭訪問など、興味深い活動が多々あります。特にまた、AAJの学生に日本の生産技術の高さを理解してもらい興味を持ってもらえるよう、KL市内の日系企業の工業見学をする活動もあります。たいていの企業には、AAJの大先輩たちが管理職として働いているので、社会人としての先輩の姿を見ることも学生にとってはよい刺激となることでしょう。そんなAAJに一人でも多くの優秀な学生に入学してもらうために、昨年に引き続き教科・日本語科教員によるAAJホームページ開設に向けての準備が進んでいます。AAJの広報だけでなく卒業生・留学中の先輩・在校生を結ぶ様々な情報交換の場としての活用が期待されています。

AAJは予備教育機関ではありますが、日本国内においては文部科学省と国際交流基金、マレーシア国内においてはマラヤ大学をはじめ複数の公的機関と関連があるいわば特殊な機関であり、相互理解のためにはどの機関ともコミュニケーションをうまく取っていくことが要となります。マレーシアの未来を担う優秀な若者が、自分の夢を翼に乗せて思い切り大空へ飛び立てるよう、日本人教員とマレーシア人教員の協働作業によるコースの充実化に向けて奮闘する毎日です。

1年生

対尾 幸華

5月、AAJに新入生がやってきます。殆どの学生が日本語に触れたことがなく、挨拶も知りません。その目には、期待と同時に大きな不安も窺えます。そんな学生たちを、私たち教員は温かく迎えます。

難しい漢字学習

入学直後から始まる慌しい日々、まずは3日間でひらがな・カタカナを学習します。2週目からは漢字授業が始まります。学生たちは初めて目にする文字を必死に覚えていきます。

授業が進むにつれ、学生たちは徐々に焦り始めます。勉強すればするほど難しくなる内容、覚えても覚えても終わりのない漢字・語彙。「私の日本語はまだまだです」「毎日一生懸命勉強していますが、上手になりません」学生たちの口からは弱音が聞こえるようになります。

特に苦手意識を持っているのは「漢字」です。「漢字」は非漢字系日本語学習者にとって最大の難関と言えます。AAJでは毎日漢字のレクチャーがあり、週30~50字を学習します。入学から10ヵ月後の1年生終了時には、約920字の読み書きができるようになります。日本の小学校6年間で習う漢字は約1000字ですから、いかに速いスピードで学習しているか分かるでしょう。

2015年は漢字学習に悩む1年生のために、漢字学習オリエンテーションが実施されました。ここで活躍してくれたのは2年生です。先輩たちが漢字学習アドバイスの動画作成に協力してくれました。授業の受け方、ノートの作り方、覚え方など。同じように学習したからこそできるアドバイスを、後輩に伝えてくれました。自分の勉強も大変な中、後輩のために時間を割いてくれた先輩たち。その想いは後輩たちに届いています。先輩の動画のおかげで、1年生たちは効率的な学習方法を身につけることができました。1年生は先生だけでなく、先輩にも見守られながら学習しています。

3月、1年生最後の日に「漢字大王コンテスト」がありました。1年間学んだ成果を発揮する、チーム対抗漢字コンテストです。漢字に関する問題が、クイズ形式で出題されます。学生たちは学んだ知識を活かして解いていきます。コンテストは既習漢字の復習が目的ではありますが、ゲーム感覚で復習することにより、今後の漢字学習のモチベーションが上がるようにという教員の想いが込められています。

仲間と相談しながら漢字クイズに取り組む学生たちの画像
仲間と相談しながら漢字クイズに取り組む学生たち

仲間と楽しそうに取り組む姿を目にすると、私たち教員も自然と笑顔になり、彼らの成長を喜ばずにはいられませんでした。無事1年が終わったという安堵感に、会場全体が包まれました。

切磋琢磨し、大きく成長した1年生たちは2年生へと進級していきます。

第1回日本クイズ大会

2015年12月、新たな行事として、マラヤ大学予備教育部主催で第1回日本クイズ大会を実施しました。クアラルンプール近郊で日本語を学ぶ大学・予備教育機関の学習者を対象とした、日本語および日本の知識に関するクイズ大会です。マレー人教員と共に、専門家も立ち上げから全て担当しました。多くの参加者が集まり、AAJも1年生から1チーム(3名)参加しました。普段、教室内でしか触れることのない日本語、日本文化に触れる良いチャンスになったと思います。出場者以外の応援に駆けつけた学生も、応援席で一緒に目を輝かせながら楽しんでいました。

AAJチームは惜しくも優勝することはできませんでしたが、外部の学生との触れ合いが大きな刺激となったようです。また、日本に関する知識を深めたことで、日本留学がより近く、明確な目標となりました。日本クイズ大会は2016年度も開催予定です。

2年生

篠原 典子

AAJで学ぶということ

「この一年間は、人生で一番勉強する一年になります。覚悟してください。」そんな教師の言葉で、2年生の授業が始まります。たった10ヶ月ほど前に「あいうえお」も知らずに入学してきた学生が、これから日本の高校と同じ数学、物理、化学の授業を受けることになるのです。教えるのは日本各地の教育委員会から派遣された現役の高校教師、もちろん授業は日本語で行われます。新しい知識を得るためのツールとして日本語を学んでいる彼らですが、2年生になったばかりの彼らの日本語はまだまだそうはいきません。けれども、容赦なく授業は進んでいきます。教科の勉強そのものの難しさ、そしてそれを日本語という外国語で学ぶ難しさ、両方の難しさの中で、2年生の一年間は本当に勉強漬けの一年になります。

彼らが日本へ留学するためには、学内の試験に合格することはもちろん、日本語、理系教科ともに11月に行われる日本留学試験での高得点が望まれています。ですから、日本語の授業もそれに向けて、1年生で学んだ基礎にたくさんの文法や語彙をのせていく時期になります。特に、非漢字圏の彼らには、上級になればなるほど多くなる漢字語彙は、かなり頭の痛い課題です。たくさんの語彙、文章、考え方に触れるため、授業以外に「漢字マラソン」「読解マラソン」「聴解マラソン」という、毎日それぞれのペースで学ぶための自習用教材が山ほど用意されています。授業の予習、復習に3つのマラソン、それだけでもかなりの量で、大変だなあと思うのですが、彼らのすごいところは、これが日本語だけではなく、数学、物理、化学というそれぞれの教科でも同じような状況だということです。すべてをこなしていくために、彼らは一日の大半を日本語での勉強に費やします。海外において、日本の大学を目指すこのような予備教育機関はあまり例がないでしょう。マレーシアにいながら、彼らは日本語漬けの毎日を送っているのです。

数学の授業風景の画像
数学の授業風景

そんな彼らの学校生活、AAJでの学習、そして日本留学の費用はすべてマレーシアの国費奨学金で賄われています。一般的に子供の多いマレー人家庭での教育費を考えたとき、留学までの費用をすべて支えてくれる奨学金を受けるということは本当に栄誉なことでしょう。それを理解している彼らは、国の期待、親の期待を一身に受けて、高い壁を乗り越えようと毎日一生懸命頑張っています。その姿は時に痛々しいほどです。そんな学生たちを前にして私たち専門家も、高等教育を受けるに足る日本語能力を、いかに効率よく、いかに短い期間で身につけられるのか、日々考えながら奮闘しています。

歴史を受け継いで

かなりの努力を余儀なくされるAAJの2年生ですが、それを精神的に支えてくれるのが素晴らしい先輩たちの存在です。毎年、8月には「先輩の話を聞く会」という会が行われます。同じ寮で1年間一緒に過ごしたすぐ上の学年の先輩から、もう何年も前に卒業し、マレーシアに戻って働いている先輩まで、毎年たくさんの先輩が集まってきてくれます。そこで、日本の大学に入学したばかりの先輩の大変さ、大学3年生になった先輩の就職への考え、もう働いている先輩の社会に貢献する喜び、いろんなお話に触れ、AAJの学生たちは自分の将来についていろいろなことを考えます。そのまなざしは真剣そのものです。

日本全国の大学に飛び立った先輩たち、環境も違い、考え方も様々ですが、その根底に流れているのは、あの大変だったAAJ時代、最後まで頑張り通した自分への誇りなのかもしれません。自分も教師にお尻をたたかれながらやっていた「漢字マラソン」を、「あれは絶対役に立つ!」と後輩に力説している姿は、教師の目から見ても頼もしく、微笑ましいものでした。

先輩たちが後輩の素晴らしいロールモデルとして帰ってきてくれる「先輩の話を聞く会」。専門家にとっても、長い歴史を受け継いでいく責任の重さを実感する一日となります。

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