世界の日本語教育の現場から(国際交流基金日本語専門家レポート)マラヤ大学予備教育部日本留学特別コース

マラヤ大学予備教育部日本留学特別コース
伊達久美子・篠原典子・福島奈緒美

「Tシャツに描かれた一文字『志』」(伊達 久美子)

マレーシアは、マレー系・インド系・中華系を中心に、他の少数民族からなる多民族国家です。クアラルンプール市内を走る電車に乗ると、車内を飛び交う様々な言語に思わず耳を傾けたくなります。文化・習慣・宗教・言語が異なる民族が、お互いに尊重し合いながら共存できる、異国情緒あふれる国・・これがマレーシアの大きな魅力と言えるでしょう。その首都クアラルンプールにあるマラヤ大学(UM)の予備教育部(PASUM)に、私達の「日本留学特別コース(RPKJ/通称AAJ)があります。

KL方面とPJ方面からAAJ会場への案内のマラヤ大学キャンパスの図
AAJの全貌

今年は日本とマレーシアの国交が始まって60周年に当たる記念すべき年ですが、その中で1982年に設置されたAAJは今年で36年目を迎える歴史ある教育機関です。学生はほぼ全員がイスラム教徒で、2018年度は2年生(36期生)が60名、5月末に入学してくる1年生(37期生)も80名前後の予定です。1984年に初めて日本に留学した学生数はわずか39名でしたが、その数も現在では4000名近くになりました。教員は基金派遣の教員が7名、マレーシア人現地教員が11名で運営されています。

AAJが目指すゴールは、学生全員が日本の国立大学の理工学部に入学することです。そのためには学生は毎年11月に実施されるEJU(日本留学試験)とその後12月に行われるAAJの修了試験に合格しなければなりません。入学時には「あいうえお」も知らなかった学生が、AAJ独自のカリキュラムに沿った授業を通して、平仮名・カタカナ・漢字を習得しつつ、卒業までの約20か月で大学の授業がある程度理解できるような日本語力と理科系の知識を日本語で身につけなければならず、非漢字圏の学生にとっては想定外の困難な道のりと言えます。入学できる学生は、マレーシア全土から選ばれた成績優秀な学生ですが、それでも朝から晩まで勉強に追われ、時間との戦いを強いられることへのストレスは相当なものに違いありません。毎年挫折しかけ、日本留学へのモチベーションが低迷してしまう学生も数名いますが、そんな学生を支援しながら全員のやる気を少しでも高めるためにも、AAJでは様々な興味深い活動が実践されています。

例えば、授業の一環として行われているものに「自律支援プロジェクト」による教育活動があります。文化も宗教も生活環境も異なる日本で、学生が自律した留学生生活が送れるようにするためにはどんな教育が必要か…そんな日本語科・教科教員の思いで2017年に発足したのが「自律支援プロジェクト」です。プロジェクトでは、AAJの卒業生で、マラヤ大学工学部で教鞭をとっている先輩数十名と連結して、学生が自分の将来を見据えた留学の意義を考えられるように、講義やワークショップを実践しています。今年は初めて大学の研究所を見学するツアーが行われます。AAJは、日本国内においては文科省と国際交流基金、マレーシア国内においてはマラヤ大学をはじめ複数の公的機関と関連があるいわば特殊な教育機関ではありますが、こうした大先輩からの支援を授業の一環として得られるということも、このコースの大きな特徴と言えるでしょう。また学生の気分転換をはかるために、1年生対象の「スピーチ大会」・「ビジターセッション」・「漢字大王コンテスト」・「俳句・川柳コンテスト」。2年生対象の「スピーチ大会」・「日本人学校との交流会」・「KLに在住の日本人家庭訪問」と2年間の集大成としての「プロジェクトワーク」。そして1年・2年合同の「先輩の話を聴く会」・「スポーツ大会」などが行われています。スポーツ大会では、学生がデザインしたTシャツを、教員も着て一緒に汗を流します。昨年のTシャツには大きく力強い『志』という漢字が、一文字描かれていました。学生の思いが込められたいくつもの『志』が、朝日を浴びてフィールドを駆け巡る様は、実に壮観でした。

学生一人一人の『志』と、その学生を支援する教員の『志』が一つになって、36年の歴史が今年も受け継がれていきます。

スポーツ大会で学生が行列を調整している写真
スポーツ大会の写真

学生の思いが伝わる時間、「スピーチ大会」「俳句・川柳コンテスト」(福島 奈緒美)

「どのように人生を見るかによって、私たちの人生は幸せだったり、苦しかったりします」「みなさん、自分の明るい将来をしっかり見て、幸せな人生にしましょう」

これは、2017年度の学内スピーチ大会で優勝した学生のスピーチの一節です。聴覚障害を持った人の話から始まったこのスピーチは、日本語表現の正しさはもちろん、発音や流暢さ、構成、そして説得力においてもすばらしく、聞いている学生や教師みんなの心をつかみました。「あいうえお」から始めた1年生の日本語学習は、このスピーチ大会がその総まとめとなります。入学して10か月、3分間のスピーチで聴衆の心を捉えるまでに上達する学生の日本語に、担当教師全員が感動する毎年恒例の大切な行事です。

スピーチをする女学生の写真
スピーチをする学生

このスピーチ大会に至るまで、学生たちは10か月間、日本語漬けの毎日を送ります。5月に入学後、まずひらがな、カタカナの文字表記、教室表現、あいさつを3日間で習得し、初級日本語の授業が始まります。ここから毎日毎日朝から晩まで、教室で日本語に向かう日々が始まります。そんな中、教科書を離れて自分らしさを発揮できるイベントは、学生にとても人気があります。例えば「俳句・川柳コンテスト」。入学して半年経ったころ、まず「俳句・川柳」の講義でその面白さを学びます。たった17文字で気持ちを伝えることができる、ということに学生はおどろき、質問しながらとても興味深そうに講義を聞いています。その後、学生自身で各々自由に作品を作ります。たった半年、たった17文字、悪戦苦闘しながらも楽しんで詠む姿を、教師側も楽しみながら見守ります。特に、四季がないマレーシアで生まれ育った彼らにとって、「季語」を入れることは至難の技。自然と「川柳」の作品が多くなります。そしてその作品には、どれも学生の隠れた思いがあふれています。

それでは、昨年の1年生、36期生の作品をいくつかご紹介しましょう。

まずは、青春を感じさせる恋心を詠った2作です。
「春近い あなたの気持ち まだ見えず」(男)/「ほかの人 すてきすぎても 愛はユー」(女)

一方、本当は医学部に進学したかったにもかかわらず、親の勧めでAAJに入学した女子学生は、

「親のため 桜見なくちゃ 夢捨てて」。

もちろん、こんな学生もいます。

「俳句書く 頭が痛い 帰りたい」 ......。

他にも、普段は冗談ばかり言っている学生が地球温暖化へ警鐘を鳴らす歌を詠んだりなど、学生の知られざる一面を見ることができるこの時間は、教師も毎年楽しみにしているイベントです。

このように、いろいろな思いを胸に勉強に励んできた1年生は、最後のスピーチ大会において、10か月で身につけた日本語を存分に使い、その思いを発表します。聴衆の学生たちも同期入学の友だちの日本語力に驚き、話の内容に共感しながら、2時間のスピーチ大会を楽しんでいます。そしてこのスピーチ大会が終われば、いよいよ2年生。日本の国立大学留学に向けた、本格的な学習期間が始まります。1年生はやる気と期待を胸に、次の学年へと進んでいきます。

スピーチ大会で頑張れやがんばろうと書かれている紙をもって、応援する学生たちの写真
スピーチ大会で応援する学生たち

2年間の集大成 プロジェクトワーク(篠原 典子)

AAJの2年生というのは、まさに「受験生」。毎日午前8時から午後6時までの9時間授業、寮に帰ってからも、数学、物理、化学、日本語の宿題、予習、復習…ずっと勉強は続きます。中間、期末、EJU、修了試験と息つく暇もなく試験が続くのですが、それが終わってからも彼らの勉強は続いていきます。日本語科では、12月の修了試験から修了式までのこの時期を留学準備期と呼び、それまでなかなか時間をとることができなかった、会話やノートテイキング、レポート作成などの能力を養成するための授業を行っています。

その中で、特に多くの時間を割いているのがプロジェクトワークです。これは、学生が3~4名のグループで、自分たちで研究テーマを決め、それについてデータを収集、分析、発表し、レポートにまとめるという活動です。テーマについて決められているのは、日本とマレーシアを比較するものということだけ。あとは自分たちで興味のあるテーマを選びます。授業では、データの集め方、分析の仕方、アウトラインの書き方等、教員から段階に応じた説明がありますが、それを自分たちの研究の中でどう生かしていくかは、学生が自分たちで考えなければなりません。教員は大きく間違った方向に行ってしまわないよう、適宜アドバイスは加えるものの、主体は学生たち。今年度も「日本とマレーシアの小学校の理科の能力の比較」「自動速度違反取締装置」「離婚率の変化」など、とてもユニークなたくさんの研究が生まれました。

この活動は、AAJでのすべての試験が終わった後に行われるため、そのモチベーションの持ち方は学生によって大きな差があります。大きい試験が終わり、一気に気が抜けてしまう学生。これまでの受験勉強とは違って、「自分たちで考えなさい」と言われた途端、どうやったらいいのか戸惑ってしまう学生。やっとここまでたどり着いたという感じでキラキラと目を輝かせて取り組む学生。このように、モチベーションの高さも、そして、興味の対象も、日本語の能力も違う、様々な学生達を、教員はあえて混ざるようにグループを分けます。気が合わない人や、これまであまり話したことがない人と同じグループになってしまうこともあるでしょう。テーマを決定するときから、学生たちはメンバーと話し合い、協力し、時には折り合いをつけながら、作業を進めていくことになります。みんなが公平に作業を分担するにはどうすればいいか、非協力的なメンバーにどうやって協力してもらうのか等、研究テーマ以外のことで頭を悩ませることもしばしばです。もちろん、うまく協力できるグループばかりではなく、失敗するグループも出てきますが、教員はなるべく自分たちで解決するよう促します。失敗も含めて、経験することこそが一つの学びだ、そう考えているからです。これから日本へ行って、日本人や他の国から来た留学生、みんなとうまく協力しながら留学生活を送っていくためには、日本語能力だけでなく、コミュニケーションや問題解決のためのスキルが必要でしょう。そのための小さなリハーサルをここでやることで、何か気づきを得てほしい。それがこの活動を行う、もうひとつの狙いであり、私たち教員の願いです。考えてみると、プロジェクトワークだけでなく、AAJでの全ての授業、活動には、こうした願いがあります。

階段状になった大教室で、2年生の学生、教員、また外部の審査員の先生、あわせると100名近くが見守る中、自分たちの研究について堂々と考察を述べ、質問に答える姿は、大変立派なものでした。2年前、あいうえおから始めた日本語、それを使って、調べ、まとめ、発表ができる、それだけでも感無量なのですが、友達と一緒に悩んだり、時にはケンカしたりしながら、全てを乗り越えて、みんなで協力して発表する姿は、いろんな意味でAAJでの2年間の集大成と呼ぶにふさわしいものです。AAJの修了生たちの絆の強さ、その源はここにあり、それは現在も脈々と受け継がれています。

発表している学生の写真
最後の発表会で自分たちの研究について発表する学生

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