日本語教育通信 にほんごハローワーク 第8回

にほんごハローワーク

第8回 誰にでもできる平和貢献を広めたい ケイ・シー・ジョシさん 株式会社エイチシーエル(HCL)・ジャパン ITコーディネーター。1992年インド大使館員のアシスタントとして日本に滞在したときから日本語を学びはじめ、インド帰国後からIT企業に就職。日本の顧客を一手に引き受けるITコーディネーターとなる。2000年にHCL入社。2001ー2003年には名古屋。2004年には川崎、2005年以降は東京に赴任。

第8回 誰にでもできる平和貢献を広めたい

Q1:ITコーディネーターとはどういうお仕事ですか。

 情報通信技術(IT)コーディネーターとは、IT企業の中でソフトウェアを開発しているチームとお客様との橋渡しをする仕事です。私はインドのIT企業で、日本企業のお客様と仕事をしています。お客様は英語が苦手ですし、会社には日本語が使えないチームもあります。私はお客様の要求をすべて理解し、会社のチームに伝え、開発した製品を納品しています。

ケイ・シー・ジョシさんの写真

Q2:日本や日本語にかかわるようになったのは、何がきっかけでしたか。

 私は北インドのウッタランチャル州のチャンパワット地方にある小さな村ラマクで生まれ、日本に行くことなど夢にも思わずに育ちました。2歳のときに事故で父親を亡くし、まもなく母親も亡くしたので、兄に育てられました。村にはほとんど仕事の機会がないので15歳からデリーに移って働き、事務員になれば職に困らないと思えるようになりましたが、急に勉強し続けたいという思いがわき、大学入学資格を得るための国立の夜間学校(ナショナル・オープン・スクール)に通うことにしました。
 日本に行くきっかけは、この学校で知り合った友人が私をインド大使館の方に紹介してくれたことでした。大使館の方は、東京に同行するスタッフにならないかと私を誘ってくださったのです。私は学校の卒業を間近に控えていましたが、日本に行っても通信教育で残りの授業を受けられることを知り、3年間の契約を結びました。
 こうして私は、日本語の「あ」の字も知らずに、1992年の8月15日に来日しました。日本に来てからは、どこに行っても、人々が話している内容がわかりませんでしたので、日本語を勉強したほうがいいのではないかと思いました。大使館の方も勉強を勧められましたので、仕事が終わった後に夕方から始まる東京日本語学校(Naganuma School)に通い始めました。最初はとても理解できそうにないと思いましたが、ひらがなとカタカナを勉強し終わった後、急に漢字の読み書きができるようになりたいと強く思うようになりました。仕事の関係で学校に行けない日もありましたので、家に帰って夜10時から12時、ときには深夜2時半まで、漢字を1文字ずつ、何度も書いて勉強しました。こうして日本語能力試験4級に合格するための漢字80文字を1か月で覚えました。その後、ますます漢字を勉強したくなり、2年後に日本語能力試験2級を受け、合格しました。そのころから日本語で生活もでき、仕事もできるようになりました。

Q3:ITのお仕事をなぜ始めたのですか。

 大使館での赴任が終わって1995年の8月末に帰国するとき、インドの外務省関係の職を紹介されましたが、私は考える時間がほしいと断りました。仕事に縛られず、本当に自分のしたいことをしようと思ったからです。そこで他の方に勧められたITの仕事を選びました。

 同じ年の12月、あるソフトウェア開発会社に就職しました。1998年から日本からの仕事が増え、日本の顧客対応はすべて私に任されました。私は帰国してからもデリーの日本文化情報センター(JCIC)で日本語を勉強していましたし、会社で日本語を使えるのは私だけだったからです。そのときから ITコーディネーターとしての仕事が始まりました。

 HCLに入社したのは2000年末です。当初は入社後6か月間のトレーニングが必要だと言われましたが、私が入社した日に、日本向けの仕事ができる人が必要になり、初出勤の1時間後には実際の作業を始めていました。その後も、入社してから1か月目に、日本のお客様からコーディネーターの要望があり、私が紹介され、再び日本に来ました。赴任地は名古屋で、2年半ほど仕事をしました。インドに戻ってからも日本のお客様からたくさんの仕事を頂きました。 2004年末には川崎で3か月仕事をしました。2005年の5月には東京に赴任し、現在まで同じお客様のもとで働いています。

Q4:日本に来てから困ったことはありますか。

 おかげさまで、ありません。私が日本人の特徴として一番良いことだと思うのは、時間をきちんと守ることです。妻はインドの考え方で約束の時間に30分ぐらい遅れても平気だと思うので、それでけんかすることもありますが、妻も日本の生活を楽しんでいます。名古屋で妻も日本語の勉強をしています。
 日本の方はとても親切です。東京に赴任して間もなくのころ、家までの帰り道に迷ってしまい、ある日本人の方に道をききました。するとその方は「すみません、ちょっと待っていてください」と言ってどこかに行ってしまいました。たぶん戻ってこないだろうと思いながら待っていたのですが、その方は近くのお店で地図を買って戻って来てくれただけでなく、帰路までの道順を英語で説明しながら、私たちを家まで送り届けてくれたのです。他にも忘れられない親切を受けてきました。

Q5:今後、どのようなことに取り組もうとお考えでますか。

日本語の先生がケイ・シー・. ジョシさんのために探し出した敬語の本(萩野貞樹『ほんとうの敬語』)
日本語の先生がケイ・シー・ジョシさんのために探し出した敬語の本(萩野貞樹『ほんとうの敬語』)

 平和に貢献したいと思っています。私は平和についての専門家ではありませんが、殺人のような悪いことをする人に対しても、話を聞き、説明することで、悪い考え方を良い考え方に変えることができるのではないかと思っています。

 会社では去年、私のチームでボスに対立している4人の社員を1人ずつお茶や夕食に誘い、話を聞きました。私はまず彼らから、ボスはどんなことを言ったのかと聞き、良い面、つまりボスが会社全体のことを考えて彼らに指示を出している面を詳しく説明しました。彼らは私の説明に納得し、その後、ボスとの関係はとても良くなりました。対立が深まるのは、互いの考えをきちんと説明していないからなのです。
 私はこの大きな世界の中では小さな虫のような存在ですが、人に要求するのではなく、できることを自分で始めることが、平和に貢献するための第1歩だと思っています。まず友人、家族、学校、会社といった身近な人間関係のなかで、お互いの考え方をわかり合う必要があります。大きな海の水も1滴ずつ水がなくなっていけば枯れてしまうでしょう。私は平和を海のように広めるための1滴の水として、どんな小さな機会でも自分の考えを広めたいと思います。取り返しのつかないことを防ぐためなら、私は寝食を忘れてでも、世界中の人々の相談に乗りたいと思っています。

 説明するためには、言い方も重要です。言い方によって相手のとらえ方はまったく変わります。刺すような言い方ではなく、柔軟に相手に合わせ、相手が理解できるように説明しなければ考えは伝わりません。そのために私は敬語をもっと勉強したいと思い、お世話になっているボランティアの日本語の先生から、敬語を詳しく勉強できる本を教えてもらいました(萩野貞樹『ほんとうの敬語』PHP研究所)。また、私のチームには部下がいますが、チームでは私が一番下の立場なのだと思うようにしています。
 また、私は故郷の村で支援活動を行っている"Sambandh"というNGOに寄付しています。故郷の村では、各家庭にはトイレがなく、家から離れたオープンエリアを使っていましたが、最近、このNGOの活動で、500のトイレを設置しました。それ以外にもさまざまな支援活動が行われています。私は幸運にも日本に来て働くことができたので、経済的には弱者である故郷の村人を助けたいと思っています。

Q6:日本語を勉強中の方に一言アドバイスをお願いします。

 日本語を勉強することで、日本向けの仕事ができるようになり、日本の人々と出会ったり、自分の国では経験できないさまざまな事を体験したりすることができます。そして平和的な考え方を身につけ、将来は非常に明るくなると思います。ですから、一生懸命に勉強してください。

参考:
ケイ・シー・ジョシさんが協力するNGO "Sambandh":http://sambandhindia.com/

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