世界の日本語教育の現場から(国際交流基金日本語専門家レポート)コロナ禍の日本語能力試験

極東連邦大学
下郡健志

日本語能力試験(JLPT)はロシアの学習者にとって「たかが試験」ではありません。就職や留学の条件になるほか、自分のレベルを確かめるのに役立ちますし、試験自体が学習の目標にもなります。日本語を学習する子どもの保護者にこれからも日本語の勉強を続けさせようと思ってもらうこともできます。

JLPTはロシアでは13都市で行われています。2020年の夏は全世界で中止になりましたが、12月の試験はいくつかの都市で中止になったものの、ウラジオストクでは総領事館の粘りによって無事に実施されました。またカムチャツカでは現地での初めての海外試験として実施されました。

ルースキー島と本土を結ぶ渡し船の写真
ルースキー島と本土を結ぶ渡し船

ウラジオストク

ウラジオストクでは日本総領事館が極東連邦大学を会場としてJLPTを行っています。大学で2020年9月から対面式の授業が始まったこともあって、12月の試験は何の問題もなく行われるはずでした。しかし試験日の10日程前、雪とも雨とも言えない嵐が町を襲い、町中のあらゆるものが一晩で氷に包まれてしまいました。ほとんど全ての木々は重さに耐えきれず倒れ、酷い所では一ヶ月にわたって断水と停電が続きました。幸いJLPT会場である大学は無事だったのですが、大学のあるルースキー島と本土を結ぶルースキー大橋を吊り上げるワイヤーから氷が落下する危険性があったために橋が封鎖され、アクセスは渡し船だけになりました。総領事館と大学は直前まで島での開催を検討しましたが、船は2時間に1本しかなく、片道2時間近くかかってしまう大学に試験資材を持って行ったり、何よりも子どもたちが船に乗って島まで行くことは難しいと判断し、急遽市内で代わりの会場を探しました。そして日本語教育の歴史が長い51番学校が名乗り出てくれました。試験監督として日本語教師だけでなく、51番学校の先生方の活躍もあり、無事に実施できました。ルースキー島の寮に住む学生は朝早く船に乗って会場まで来なければなりませんでしたが、彼らは若くてたくましいですから問題ありませんでした。

カムチャツカでの試験の様子の写真
カムチャツカでのJLPTの様子

カムチャツカ

カムチャツカは90年代から日本語教育が盛んになり、一時は日本人教師が何人もいてモスクワやウラジオストクに続く日本語教育の拠点を目指すほどの地域でした。しかしロシア人の若者の数が急激に減少しはじめた2010年ごろからその盛り上がりもなくなりました。大学の専攻科目としての日本語教育が消え、学習者数も大幅に減少したのです。

カムチャツカは自然が豊かでロシア人にとっても憧れの地です。多くの外国人が訪れる所なのに、そこで活躍する通訳ガイドはモスクワやウラジオストクから来るという事態になりました。その状況を改善するため、2018年カムチャツカ地方外国語通訳教師協会(Kappiya)が設立され、地域復興の最初のステップとしてJLPTの実施を国際交流基金に相談に来ました。私は2019年に2回カムチャツカを訪問し、現地での日本語教育の様子の視察、会場となる場所の下見、実施のために必要な業務内容の説明などを行いました。確かに大学の日本語教育は質も量も低下し、初中等教育を行う学校では日本語教育は全く行われていません。ですが、いくつかの民間語学学校が子どもたちだけでなく大人への日本語教育を行っていて、日本語弁論大会ではたくさんの学習者が緊張しながらも楽しそうに日本語で発表してくれました。実施機関のKappiyaは交渉の達人である代表のオレグさん、映画「ソローキンの桜」で日露語通訳者として、そして役者としても活躍したアレクサンドルさん、長年、通訳ガイドとして評価の高いマリアさんたちが一丸となった立派な組織でした。そして在ウラジオストク日本総領事館の理解もあって2020年12月からJLPTが実施されることになりました。

カムチャツカは半島ですが、陸地で他の都市と行き来することはできません。移動は主に飛行機で、これまで試験を受けるためにはウラジオストクかハバロフスクまで行かなければなりませんでした。滞在費を含めるとほぼロシア人の平均給料一ヶ月分近くが必要で、受験することはほぼ不可能でした。またTOEICなどの英語の試験すら行われたことはありませんでした。当然JLPT実施への期待は大きかったのですが、同時に各方面から出る不安もありました。様々な人と話しましたが、面と向かって「試験はやめたほうが良い」という人すらいました。また試験直前になって会場が使えなくなるという問題も起きました。しかしコロナ禍にもかかわらず会場を提供してくれたカムチャツカ国立工科大学、試験実施を許可した地方政府のおかげで、何より2年にわたり粘り強く各方面と交渉して準備してきたKappiyaの努力が実り46名もの方が受験しました。

「たかが試験、されど試験」は使い古された表現ですが、まさにその言葉の通りです。国際交流基金派遣日本語専門家として業務にあたる前より、私はこれまで日本語教師として受験者を指導する立場から「試験」そのものばかり目を向けていました。しかし試験に関わる人たちは受験者、そして試験を作成したり、その対策をしたりする日本語教師だけではありません。JLPTに関わる全ての人が今後の日露関係の構築に貢献する人たちとして活躍するのだろうと感じました。

派遣先機関の情報
派遣先機関名称
Far Eastern Federal University
派遣先機関の位置付け
及び業務内容
極東連邦大学は、1899年に設立の東洋学院の流れをくむ極東国立大学を母体としていくつかの大学を統合して2011年に設立された連邦大学である。現在は9のスクール(学部)、函館を含む8つの分校を持つ。キャンパスは2012年に開催されたAPEC会場に移転し、その後も毎年行われる東方経済フォーラムの会場としても使用され、「環太平洋国家ロシア」の象徴である。国際交流基金は2002年から2009年まで専門家を派遣していたが、2018年、ほぼ10年ぶりに専門家派遣を再開した。専門家は派遣先機関での日本語教育のほか、カムチャツカからイルクーツクまでの極東・東シベリア・極東地方全体の日本語教育の支援活動を行う。
所在地 10 Ajax Bay, Russky Island, Vladivostok, Russia
国際交流基金からの派遣者数 専門家:1名
日本語講座の所属学部、
学科名称
東洋学インスティテュート地域国際研究スクール日本学専攻
日本語講座の概要
What We Do事業内容を知る