日本語教育通信 日本語からことばを考えよう 第10回

日本語からことばを考えよう
このコーナーでは、日本語に特徴的な要素をいくつか取り上げ、日本語を通してことばをとらえなおす視点を提供します。

【第10回】時間とことば(5) 文章レベルのテンス・アスペクトと…

みなさん、こんにちは。

このコーナーでは、ことば―言語―というものはどんなものなのか、どうやってとらえたらいいのかを、日本語ということばを通じて考えていきたいと思います。

むずかしい漢字が多いときは、「ひらひらのひらがなめがね」をご利用ください。

「筆者のイクタンです」の吹き出し付きの筆者イクタンのアイコン画像

暑い夏でした。日本の夏の風物詩の一つである高校野球(全国高等学校野球選手権大会)も熱かったです。決勝戦「仙台育英高校対慶應義塾高校(以下、育英および慶應)の前に娘がSNSでこんなことをつぶやいていたのです。

―育英に勝ってほしいな…

さて、娘はどちら(育英か慶應)を応援していたでしょうか。
普通に考えると、

[育英が勝つ]+ほしい(願望)⇒育英に勝ってほしい

つまり、育英を応援しているという意味にとれますよね。
でも、友だちはそういう意味にとりませんでした。娘が慶應を応援していることを知っていたからです。もう一つの解釈は、こうです。

[慶應が育英に勝つ]+ほしい(願望)⇒(慶應)育英に勝ってほしい

同じ型の文が正反対の意味を持つこともあるということと、文脈(ここでは応援しているチームについての知識)がいかに大切であるかを示す例ですね。

前回からお話ししていることも、文レベルだけでは説明できない、文章(text)レベルでの時間表現なので、これもまた、文脈が大切な例と言えると思います。

1. 文章(text)中のル/タ形があらわす時間以外の要素

前回、『塩狩峠』を例にとって、タ形の中にル形がまざる文章を紹介し、ル形によって書かれた文が迫りくる描写やト書きのような背景描写として使われていることをお話ししました。今回は文章の中で使われるル/タ形についてもう少し、別の観点から考えてみたいと思います。

2. 『猫町』で使われているル/タ形

萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)という詩人をご存じですか。『月に吠える』や『青猫』などの詩集で有名ですが、少し短編小説も書いています。なかでも『猫町』という作品(文庫本で22ページちょっとの長さです)が、私の「推し」(おすすめ)です。特に小説のモチーフが〈現実の存在よりも錯覚に実在性がある〉のがイイです。

主人公は、方向感覚がよくないらしく、散歩をしてもすぐに道に迷ってしまいます。同じ場所でも、どこから入るかによって全く違った景色に見えてしまうことがあると言います。そんな主人公が、ある時、家に帰る途中で、見知らぬ町に入って行ってしまいました。

[A]
――私は道に迷って困惑しながら、当推量で見当をつけ、家のほうへ帰ろうとして道を急いだ。そして樹木の多い郊外の屋敷町を、幾度かぐるぐる廻ったあとで、ふと或るにぎやかな往来へ出た。それは全く、私の知らない何処かの美しい町であった。街路は清潔に掃除されて、舗石がしっとりと露にぬれていた。どの商店も小奇麗にさっぱりして、磨いた硝子の飾り窓には、様々の珍しい商品が並んでいた。珈琲店の軒には花樹が茂り、町に日陰のある情趣を添えていた。四辻の赤いポストも美しく、煙草屋の店にいる娘さえも、杏のように明るくて可憐であった。かつては、こんな情趣の深い町を見たことがなかった

(出典:『猫町』萩原朔太郎、岩波文庫、p.12)

主人公は、近くにこんな町があったなんて、どうして気がつかなかったんだろうと思います。夢を見ているような、映画を観ているような…
そして「だがその瞬間に、私の記憶と常識が回復した。」(p.13)と我に返ります。

[B]
――気が付いてみれば、それは私のよく知っている、近所のつまらない、ありふれた郊外の町なのである。いつものように、四ツ辻にポストが立って、煙草屋には胃病の娘が座っている。そして店々の飾り窓には、いつもの流行おくれの商品が、ほこりっぽくあくびをして並んでいるし、珈琲店の軒には、田舎らしく造花のアーチが飾られている。何もかも、すべて私が知ってる通りの、いつもの退屈な町にすぎない

(出典:『猫町』萩原朔太郎、岩波文庫、p.13)

「一瞬間のうちに、すっかり印象が変わってしまった。」(p.13)と述べています。

3. ル/タ形で描き分けられる町の様子

さて、上で見た、二つの文章[A]と[B]をくらべてみましょう。
[A]は主人公が初めて来たと思い込んでいる町の描写です。タ/テイル形で書かれていますね。これは主人公が体験したことを今の時点から語っているものです。やや詠嘆的に回想している感じがしませんか。タ形があらわすのは、前回お話しした通り、すでに起きた出来事です。すでに起きた出来事は事実性/客観性が高く、実在領域realis)に属していると言えます。
一方、[B]は主人公の記憶と常識が回復した後の町の様子です。ここではル/テイル形が対照的に使われていますね。これは、前回のお話のうち、生き生きとした「迫りくる描写」ではなく、ト書きのような「背景描写」にあたります。主人公が今見ているものをフラットに描いている感じです。ここでの町は眼前に展開する知覚対象として描写されていると言ってもよいでしょう。
町についての二つの描写を言語的にとらえると以上のようなことがいえるのではないでしょうか。

では、これを実体としての町から考えるとどうでしょうか。
[A]は主人公の記憶の中にある錯覚された町、つまり実際とは違う町(非実在 irrealisであるのに対して、[B]は現実に存在する町(実在 realisです。

確からしさ(事実性)という観点から考えると、言語的には既に存在している事態を表すタ形[A]の方が、目の前の感覚を表すル形[B]より確かな感じがします。
ところが、実体としての町は[A]よりも[B]の方が、確からしさが高いのではないでしょうか。

確からしさ
言語的 [A]>[B]
実体 [A]<[B]

つまり、言語的により高い事実性を持って描かれた町が、実際には〈私〉によって錯覚されたところに、〈現実の存在よりも錯覚に実在性がある〉というこの小説のモチーフが生かされているのではないでしょうか。

ル/タ形で描き分けられる町の様子の画像

さて、ここで実在とか非実在いう語が出てきましたが、これはテンスやアスペクトとはまた別の法(moodとか法性(modalityというカテゴリーの問題です。ル形やタ形はテンス・アスペクトでなくモダリティにもかかわってくるのです。

4. 「前景化」ということの言語による違い

最後にもう一つ、ル/タ形について、別の観点からみてみましょう。
物語では、ストーリーが進んでいく部分と立ち止まって何かが起きている部分がありますね。前者を背景化(backgrounding 、後者を前景化(foregroundingと言います。
どうやって表現するかは言語によって異なります。ここでは一つの例として前景化を取り上げてみましょう。
新約聖書に次のような話があります。

――こうして彼らが陸地に上がると、そこには炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた
イエスは彼らに「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と言われた
シモン・ペトロは舟に乗って網を陸地に引き上げた。網は百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったのに、網は破れていなかった。
イエスは彼らに言われた。「さあ、朝の食事をしなさい」
弟子たちは、主であることを知っていたので、だれも、「あなたはどなたですか」とあえて尋ねはしなかった。
イエスは来て(来た)、パンを取り(取った)、彼らにお与えになった。また魚も同じようにされた。

新約聖書(新改訳)『ヨハネの福音書』第21章9-13節

原文はギリシア語Koinee Greekで書かれています。日本語でタ/テイタ形になっている動詞は、原文のギリシア語で過去を表す表現(アオリストや未完了過去)になっている場合と、現在を表す表現になっている場合があります。太字で書いてあるのが、ギリシア語で現在を表す表現になっている動詞です。

ではなぜこの文章のギリシア語では、太字の部分に現在を表す表現が使われているのでしょうか。これは出来事の眼前描写というよりも、重要な場所に登場人物を導いたり、重要な事物やせりふを導入したりする談話機能を持っているということです。つまり、「大切な場面ですよ」ということを知らせるマーカーとして使われているということです。前景化の一つの例ですね。

日本語ではどうでしょう。語りの文章において出来事を順番に述べるときはタ形を用い、立ち止まって背景を述べたり、作者のコメントを入れたりするときにはル形が用いられますので、このような文章の場合、タ形を使用しますね。太字の部分が現在の表現ル/テイル形になることはないですね。

このように、現在形/過去形ル/タ形の使い分けの方法は言語によってそれぞれ違いますが、時間にかかわる表現により文章中の出来事を描き分けているのは面白いことですね。注1


読者の皆さん、お疲れさまでした。
今回は長くて少し難しい文章をたくさん読まされたので大変だったと思います。
日本語をより深く学ぶため、お話ししてきたル/タ形の様々な使い方が、作品をより深く味わうために、みなさまのお役に立てたらとてもうれしく思います。

ところで、『猫町』はこの後どんな場面を迎えるのでしょうか?興味のある方はぜひ、読んでみてください。
それでは、また!

考えよう

  1. (1)文脈が大切だと思ったことがありますか。エピソードをあげてみてください。
  2. (2)日本語以外の知っている言語や母語では過去や現在を表す表現はどのようなものがあり、どのように使われていますか。

注:

  • 1. 第4章のテキストの選択やアプローチは[Levinsohn, S. H. (2000) Discourse features of New Testament Greek, SIL]に拠っています。
(生田 守/日本語国際センター専任講師)
What We Do事業内容を知る