日本語教育レポート 第49回

日本語教育レポート
このコーナーでは、国内外の日本語教育について広く情報を交換したり、お互いの交流をはかるために、各地域の新しい試みやコース運営などについて、関係者の方々に具体的に紹介していただきます。

【第49回】 インドネシアに広がる『まるごと 日本のことばと文化』

2023年8月
国際交流基金ジャカルタ日本文化センター 日本語上級専門家
森田 衛

1.インドネシアと『まるごと』

『まるごと 日本の生活と文化』(以下、『まるごと』)は2013年に入門(A1)<かつどう><りかい>が出版されて以来、各国で外国語に翻訳出版されています。インドネシアでは国際交流基金ジャカルタ日本文化センター(以下、JFJA)が2017年に入門<かつどう><りかい>を出版したのを皮切りに翻訳を進め、2020年3月にはシリーズ最後となる中級2(B1)を完成させました。インドネシア語版は外国語版の中で一番早く全巻が揃い、現地にある大手書店の他、各種オンラインサイト注1 から購入することができます。

インドネシア語版『まるごと』の表紙画像
図1 インドネシアで販売されている『まるごと』インドネシア語版

このレポートでは、インドネシアにおける『まるごと』について、大学での導入例とJFJAによる支援という二つの事例を紹介していきたいと思います。

2. 『まるごと』を大学の日本語コースの主教材に

インドネシアの大学では5年に1回、カリキュラムの改訂があります。日本語主専攻のコースでは卒業時の目標として日本語能力試験N3取得を掲げているコースが多いですが、N3やN2に合格しても会話や通訳に求められるコミュニケーション力が伴っていない学生が多く、現地の日系企業などで日本語を使って働く際に卒業生が苦労しているという話をよく聞きます。実際、そうした危機感は全国組織のインドネシア日本語学科連合会(KPSJI:Konsorsium Program Studi Jepang Indonesia)で口頭能力を中心としたコミュニケーション力の育成を強化する方針が示されているところにも表れています。また近年の大学生の学習動機に着目すると、日本のポップカルチャーに興味を持つ学生もいれば、卒業後すぐに特定技能ビザを取得して日本での就労を希望する学生もいるなど多様化しており、日常場面でのコミュニケーションの実践力を着実に伸ばす教科書が教育現場で求められています。このような状況もあり、カリキュラム改訂の時期を迎える大学関係者の間で次第に『まるごと』が注目されるようになってきました。なぜなら、『まるごと』は<かつどう>で会話などコミュニケーション力を高めるための活動を十分に行った後、<りかい>で文法や語彙の定着を目指す活動をするので、知識だけに留まらない日本語運用力を伸ばすことができると考えられるからです。

アル・アザール大学の取り組み

インドネシアの大学で最初に『まるごと』をコースの主教材に採用したのはジャカルタにあるアル・アザール大学です。現在の学科長のVera先生はかつてJFJAで講師を務めていたとき、日本語講座で『まるごと』を使って教えていたことがあり、大学でも『まるごと』を使いたいと考えていました。そして、Vera先生が大学で担当した会話の授業で『まるごと』を使ってみたところ、学生の評判がよかったため、他の先生にも働きかけて聴解や作文など他の科目でも『まるごと』を使用する授業を増やしていきました。その後、Vera先生が学科長になりカリキュラムを改訂する際、日本語コースの主教材を『まるごと』に変更して、2019年にはすべての学年で『まるごと』を使用して授業を行うようになりました。すべてが『まるごと』に変わっても、学生の反応はとても良かったそうです。

アル・アザール大学での授業風景写真
アル・アザール大学の『まるごと』授業

『まるごと』への移行によって日本語能力試験の合格率が下がるのではという心配もありましたが、これまでのところそのようなことはなく、むしろ日本語を使うのが楽しくなり日本語学習のモチベーションが向上し、それが試験勉強にもいい影響をもたらして合格率が上がっているといいます。大学では『まるごと』を使った授業に加え、実際の試験形式に学生が慣れることを目的とした試験対策の授業を別途設けています。Vera先生の言葉をお借りすると、「まるまる『まるごと』でうまくいっている」そうです。

リアウ大学の取り組み

スマトラ島中部プカンバル市にあるリアウ大学には日本語教師養成課程があり、中学や高校、技能実習・特定技能送り出し機関で日本語を教える教師を多く輩出しています。担当教師の間では長年、学生のコミュニケーション力の向上が課題とされてきましたが、市内の日本語学校で『まるごと』を使った授業が行われていたことや、学科のカリキュラム会議でJFJAから『まるごと』の導入を提案したことがきっかけになり、2020年入学の1年生から『まるごと』を主教材とするコースに移行しました。具体的にはこれまで文法、聴解、会話、作文といった技能別に分かれていた科目を表1のように『まるごと』<かつどう>を使う「総合日本語」と『まるごと』<りかい>を使う「日本語」という科目に再編して、複数の教師が授業に参加するチーム・ティーチングを導入しました。2年生の途中から<かつどう>と<りかい>分かれていない『まるごと』初中級に入りますが、初中級と中級は各課の中で活動内容に応じて「総合日本語」と「日本語」に再編しました。2024年にはすべての学年で『まるごと』が主教材となりますが、漢字、読解、日本語能力試験等対策、口頭発表については引き続き独立した科目として扱います。

表1 リアウ大学日本語学科 新カリキュラム

1年生~2年生途中
『まるごと』
入門
初級1、2
総合日本語
『まるごと』
<かつどう>
日本語
『まるごと』
<りかい>
漢字
『どんどんつかえる
漢字練習帳』
読解
多読教材など
2年生途中~3年生
『まるごと』
初中級
中級1
総合日本語
『まるごと』
聞く、話す
日本語
『まるごと』
文法、読む、書く
選択科目
日本語能力試験等
対策
選択科目
口頭発表

*中級2は4年生選択科目として実施

講師たちの集合写真
リアウ大学で実施した『まるごと』フォローアップ

『まるごと』をコースに導入したときの学科長Nana先生は、「入門から初級までは先に<かつどう>を教えてから<りかい>に移るが、<りかい>の学習時には半分以上の学生が<かつどう>で学んだ表現やことばを覚えている」と話しています。また、Nana先生から学科長を引き継いだDini先生は、「料理や旅行など学生の経験が関連付けやすいトピックが多い。難しい言葉もあるが、入門や初級レベルでも学生が何らかのコミュニケーションが取れる」と『まるごと』導入の手ごたえを語ってくれました。他の先生方からも次のような感想が聞かれました。良い点だけでなく、苦労されている点も寄せられていますが、このような課題については、今後JFJAもともに考えていきたいと思っています。

〔入門~初級2〕

  • 例文が新しく、内容が学生自身にあてはめやすい。
  • 自律的な学習を奨励しており、学生に「みなと」『まるごと』自習コース での学習を勧めている。一部の教師は「みなと」のスクリーンショットを提出させて、学生の進捗状況を確認している。
  • 自分から学びたい人に向いているが、やる気のない学生には向いていない。

〔初中級~中級〕

  • テーマがおもしろい。ロールプレイは学生が楽しそうに取り組んでいる。
  • ストラテジーに着目した授業がおもしろい。
  • 中級になると字が小さくなり、教師も学生もびっくりしている。
  • 文法の説明が難しい。文法のテストになると弱い。学生が自分で勉強する必要がある。

3.JFJAによる『まるごと』導入支援

次に、JFJAによる取り組みについて紹介します。図2はJFJAで行っている『まるごと』の導入支援の流れをまとめたものです。

『まるごと』教授法研修からカリキュラム改訂に向けた相談や他の講師への研修実施も実施していることを示した図
図2 『まるごと』教授法研修から日本語コースへの『まるごと』導入への流れ

このうち定期的に実施している『まるごと』教授法研修と、個別の導入支援にあたる教師や機関を対象としたコンサルティングについて詳しくお話しします。

『まるごと』教授法研修

JFJAでは『まるごと』の特徴を知ってもらうために、インドネシアの日本語教師や学校関係者を対象とした『まるごと』教授法研修やセミナーを定期的に実施しています。新型コロナ感染が拡大していた時期は一時中断していましたが、その後オンラインを中心とした研修にリニューアルして再開させました。オンライン化によって参加へのハードルが下がったからでしょうか、対面で実施していたときよりも多くの応募者がインドネシア全土から集まるようになりました注2

表2 コロナ禍以降に実施した全国教師対象『まるごと』教授法オンライン研修

レベル 期間 回数 修了者数/受講者数 応募者数
入門 2021年7月~8月 7 22/25 168
入門 2021年10月~11月 5 39/42 228
中級 2022年1月~2月 6 23/29 104
初級1 2022年5月~6月 8 37/39 173

ここで研修の流れと受講生の様子を紹介します。初回に『まるごと』の背景になっているJF日本語教育スタンダード について概略を説明し、『まるごと』の特徴について、特にA1~B1までのレベル感について理解を深めていきます。次の回にはJFJA講師によるモデル授業を受講者全員が生徒役になって受けてもらいます。教師が文法説明を十分に行ってから生徒に聞いたり話したりする活動を促す授業に慣れ親しんできた大半の受講者にとって、最新の第二言語習得理論に基づいた授業、具体的にはCan-do紹介に始まり、音声インプットを丁寧に行い、教師から文法の説明が主体的に行われることなく、生徒の気づきを待ってから聴解や会話の活動に入るJFJA講師の授業は刺激的で、最初は驚きながらも受講者は楽しそうにモデル授業に参加します。最後にCan-doチェックをして授業が終わると、その後の振り返りでは受講者から毎回質問が相次ぎます。

そして、受講者が『まるごと』を使った教え方に十分興味を持ったところで、今度は教師役となって他の受講者を生徒に見立てて模擬授業する機会が与えられます。4人から5人ぐらいのグループを作り、分担して授業準備をして次の回から順番に模擬授業を行います。『まるごと』を使って授業をするのは初めてという受講者がほとんどですが、これまでの教師経験から生徒を引きつけて授業を進めていくテクニックには目を見張る先生もいて、他の受講者のいい参考になります。その一方で、これまでの感覚から先に文法のルールを教えようとしたり、教科書に載っていなくても関連することばをすべて網羅して教えたりしようとする教師役の受講者の姿も見受けられます。

模擬授業の写真
『まるごと』模擬授業の様子

模擬授業の後に行う振り返りでは、まず授業をした先生に感想を話してもらいますが、教科書が変わってもこれまでの教え方を急に変えるのは難しいといいます。それでも、他の受講者の模擬授業を見るうちにコツをつかみ、次第に生徒からことばを引き出す問いかけが上手になり、生徒の発話が多くなっていくのがわかります。このような教師研修を通して、『まるごと』の使い方だけでなくその背景や効果を実感して、現場に持って帰ってもらっています。

インドネシアには大学教師が加入するインドネシア日本語教育学会(ASPBJI:Asosiasi Studi Pendidikan Bahasa Jepang Indonesia)という教師会があり、定期的に勉強会や教師セミナーを開催したり、学習者を対象とした文化祭を企画・運営したりと各地で活発に活動しています。JFJAでも日頃からこうした教師会の活動に協力しており、ASPBJIから依頼を受けて、勉強会でJFJAスタッフが「教授法研修」と同様の『まるごと』ワークショップを行う機会もあります。

『まるごと』導入コンサルティング

「教授法研修」が終わった後、希望者に対してJFJA講師がフォローアップと称し、参加者が実際に行っている『まるごと』授業を見学して気がついたことや改善点を伝える支援を行っています。こうしたコンサルティングを通じて、受講者は少しずつ自信をつけて教えることができるようになっていきます。

また、希望する教育機関、特に大学へのコンサルティングではJFJAが仲介して、前述のアル・アザール大学やリアウ大学の先生とのミーティングを設定し、『まるごと』導入への具体的なプロセスや課題について話してもらっています。

このとき大学からJFJAへの相談の中でよく問題になるのが、これまで教えていた科目との整合性です。大学では学年ごとに修得すべき単位数が決まっていて、会話、文法、読解、表記といった科目ごとに配分されています。多くの大学ではそれぞれの科目を担当する教師が独自に教科書を決めて授業を行うことが多く、複数の教師が一つの授業を担当するチーム・ティーチングになじみがない大学も少なくありません。そこで、JFJAでは表3のとおり大きく2つのパターンに分けて『まるごと』の導入を提案しています。(1)は『まるごと』をコースの主教材にするもので、<かつどう>と<りかい>を使用します。(2)は文法積み上げ型の教材を主教材としつつ『まるごと』を併用するもので、<かつどう>を使用します。どちらのパターンにもメリットとデメリットがありますが、『まるごと』をコースに導入することで、教師にも学生にもデメリットを上回るメリットがあると考えます。そして、どういう取り入れ方をするにしても、授業を担当する教師の理解と連携が成功の鍵を握っています。

表3 『まるごと』導入 2つのパターン

  メリット デメリット
(1)『まるごと』をコースの主教材として使用
  • 語彙や文法の使用範囲が担当する教師間で共有できる。
  • 教科書購入費用が抑えられる。
  • 教師がそれぞれの担当科目を教えるペースを合わせるのが難しい。
(2)文法積み上げ型の他の主教材と組み合わせて『まるごと』を使用
  • 先に文法を導入するタイプの授業に慣れている教師にとって負担が少ない。
  • <かつどう>を使用することで、学習者の日本語運用力が高まる。
  • 複数の教科書でトピック、文法、語彙の提出順序を合わせるのが難しい。
  • 教材購入費用が高くなる。

4.おわりに

アル・アザール大学やリアウ大学の実践が評判を呼び、新規開校する大学や他の教科書を使っている大学から『まるごと』を導入したいという相談が次第にJFJAに寄せられるようになってきました。前述のとおり、インドネシアの大学では5年ごとにカリキュラムを改訂しますが、学科では1年以上前から準備を開始します。そのため、学科長をはじめとする担当者は常にカリキュラムのことを気にしているといいます。

これまでは、留学などで日本に行かないとコミュニケーション力を伸ばすのは難しいという見方が大学関係者の間にありましたが、インドネシアにいても『まるごと』を使って授業をすることによって学習者同士の活発なやり取りが期待できます。このレポートではインドネシアの大学において日本語学科の主教材に『まるごと』を導入した例を紹介しましたが、表3に挙げたように他の教科書を主教材としながら聴解や会話授業だけ『まるごと』<かつどう>を使用している大学や、選択科目等の短期間のコースで『まるごと』入門<かつどう>だけを使用する大学もあり、コースへの取り入れ方は学校によってさまざまです。

今まで使っていた教科書を変えて、今までとは違う教え方をしていくには学科長の決断が必要ですが、それだけでなく大学の上層部や同僚教師への説得、新しい教え方に対する担当教師の理解と習熟が求められます。また、カリキュラムの改訂は教育省の意向も反映して進めていかなければならないため、学科長は調整に苦労するといいます。JFJAはこのように教育機関ごとに異なる事情を理解しながら、今後も個々の教育現場に最も適した『まるごと』教師研修や導入につながる支援を続けていきます。

  1. 1.出版社Kesaint Blancのホームページから購入可能
  2. 2.2022年に入り教育の分野でも対面での活動が再開されると、JFJAが実施する研修の形もオンラインだけでなく、オンラインと対面を組み合わせたハイブリッド型に変化しました。『まるごと』教授法研修もJF日本語教育スタンダードや『まるごと』の概要説明はオンラインで行い、その後、別の日にJFJA講師によるモデル授業から受講者による模擬授業までを対面で実施しています。
What We Do事業内容を知る